朝焼けの海




 手を止めて、想う。
 眼前に広がった海、波音……。
 気怠い、と思うのは、昨夜の酒の名残か……あるいは。
――――人恋しい、という訳でもないのですけどね……
苦笑して、ものの散らばった傍らの机に腕を投げ出し、椅子の背もたれに体重を預けて、 ぼんやりと窓の外を眺める。

――――快斗……

そして思い出される姿、かき乱される、心……。


 好きだ、と思わず告げてしまった言葉に、君は驚きの表情。
だが、「オレもだよ」と、あまりにあっさりと返された言葉とその笑顔に、戸惑う。
――――本当に……?
じっと瞳をのぞき込むと、彼は笑った。「愛してるぜ、白馬!」と。 ニッと笑って、かすめるように唇が、口端に触れた……。
――――黒羽君……っ!
一瞬遅れて声を発した時には、既に姿はかき消えていた。魔法でも使ったかのような鮮やかさに、 相変わらず見事だと感嘆する一方、置き去りにされたような寂しさをも感じる。
 彼の言葉と行動の真意を確かめたかった……。


 告げるつもりはなかったことだった。
 快斗とキッド、どちらにも振り回されている自分。 どちらの姿にも惹かれ、どちらもこの手に捕まえたいという欲求が、己の何処から出てくるのか、 白馬は分からない。キッドを捉えたいのは、彼が怪盗だから。では、快斗は? 彼がキッドの正体だからという訳ではなく。 彼にはこの手の中で笑っていてほしいと思うのは――――……
 そのような想いは恋なのだと、人に聞いて驚いた。
 だから言うつもりはなかったのだ。「何故」なのか、自分でも分かっていない状態だからこそ……。

 きっかけは、快斗のいつにない真摯な瞳。
「白馬。おまえこのところ、いつもオレのこと目で追ってるけど、何で?」
間近で合わせられた視線に、心拍数がハネ上がった。 軽く目を細めて問いかけてくる瞳は、まるで催眠術にも似て……動揺のあまり思わず答えた。
まだ、自分の中ですら固まっていなかった答えだというのに。
「君が好きです」
すんなりと口を出た言葉に、驚いたのは僕の方だ、と白馬は思う。 快斗は、一瞬、あまりに簡単過ぎた答えを聞いたかのような顔をして―――― それから、「オレもだよ」と、ただ、にっこりと笑った。。
 静かでやさしい瞳だった。その静けさに、キッドの姿が重なる。「私もですよ」、と。 キッドの微笑みまでが見えるよう……。
 唇の端にぬくもりと心地よく湿った感触は、長らく肌の上から消えなかった。
 今も、思い返すと甦る感触に、白馬は首を振る。 振り払おうとしても振り払えない感覚と、いちいちそれに翻弄される自分自身に苛立ち―――― 白馬は日本を後にした。
 旅先に選んだのはギリシャ。
 ……もともとあまり旅行目的の外出を好まず、事件やら何やらでしか動いたことのない白馬にとって、 これは初めての一人旅とも言えた。シーズンオフの観光地に人はそう多くなく、少しホッとする。
 そして……
 気がつくと始まる、もの思い。

 一度だけ、彼に触れたことがあった。返された言葉と行動の意味を尋ねた時、快斗の部屋に招き入れられ、 居心地悪そうにしていた身体を、そっと抱きしめられた。
「好きだ、って言ったろ?言葉通りの意味だよ。何故?オレだって知らねぇよ、そんなもん。 おまえの情熱的な瞳にヤられたのかもな……自覚なかったのか? おまえらしいな。でもそんなこと、今更だろ……?」
笑いを含んだ声が、耳元でくすぐったく響く。 止して下さいと振り払うと、からかうように、ますます手が伸ばされ、捉えられる。そんなやり取りの中、 浅くなってくる自分の呼吸に眉をひそめ、意趣返し、とばかりに彼を強く抱きしめた。 ……腕の中に収まる、細い身体。一瞬驚いて、次いで納得する。 これならば、少女に変装することもさして難しくはあるまい、と。
 快斗は少し目を見開いた様子だったが、抵抗はしなかった。故に白馬は、彼を解き放つ機会をつかめず。
 なぁ、と、いつもよりわずかに熱っぽいささやきに、理性が少し、機能を止めた……。


 その身体のぬくもりを抱いて、その腕に抱かれて、眠った。
 君の――――肌に、触れた……。


――――愛している。
そう、言えるのだろうか、自分は……。
はっきりと言い切った快斗とは裏腹に、白馬は惑う。その迷いを吹き払うかのように、耳に残る彼の声。

 "愛してるぜ、白馬"。

――――僕は、君に愛を誓えますか……?誓っても、いいですか……?
自問自答の繰り返し。出口のない思考の空回り……。
 白馬はため息をついて、ふと机に目を落とす。

 ――――今、ギリシャにいます。昨日はロードス島へ行って来ました。

 その後は、打ち消すように二重線の引かれた文字の羅列の、繰り返された便箋。 書きかけの手紙を見つめたまま、何を書けばよいのか、途方にくれる。
――――快、斗……
ぼんやりと口の中で名を呟き、白馬は遣り切れないように小さく首を振った。
「本でも、読みましょうかね……」
そうして手に取った読み止しの本は、数ページも待たずして再び閉じられる。 妙に気分が落ち着かず、もう何もすまい、と、白馬は早々に行動を放棄した。

 朝焼けの海。
 キラキラと光を反射するその水面を見つめながら、これは恋煩いなのだと、 噛み締めるように白馬は思っていた……。


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